プロフィール

・誕生~幼少期

設備設計をする父と保育士をする母との間に兄・姉・私の三番目として生まれる。予定外の妊娠だったと聞いています。気付いたのは既に妊娠5ヶ月だったそう。

祖母が昭和初期に1万円で買った家で小学4年生まで居る。箱階段。小さな庭と蔵。五右衛門風呂。周りの同級生はバスタブの綺麗なお風呂だったので嫌だったが 祖母が薪でお風呂を沸かしてくれた思い出は消えない。

琵琶湖から歩いて1分の場所に家があったため よく遊びました。

共働きで両親は忙しく私は祖母に育てられました。庭の柿を一緒に取って剥いてお腹がはち切れるまで食べたり 夕方の祖母との琵琶湖の散歩。目的はお風呂を沸かす薪の調達。

当時は薪でお風呂を沸かす家も多かったため取合いで自然と美しい砂浜だったそうです。

母からいつも「大人になったら何になる?」と良く聞かれるたびに「かしゅ!」と答えていました。あるとき 「わたしは高い声が出ない…」と断念する。

本気で 世界が平和でありますように、おばあちゃんが長生きしますようにと仏壇の前でお願いする幼少の私だった。

三番目故 とにかく負けず嫌い。りんごの皮むきでさえも常に姉と競い、嫌がられていました。

地域の5月のお祭りには赤のギンガムチェックネクタイ付きブラウスとスカートを選び着た。

・木造小学校時代

現エクシブ琵琶湖ホテルに建っていた 入江小学校。

・根暗から脱出を試みる自分

中学校に入り自分を変えたいと思い最下位に近かったマラソンだったが気合いを入れたら学年2位になる。 やろうと思えばできる。とこの時から少し自信がついたように思います。

中学校はソフトボール部に所属。朝練、放課後練習、土日は一日中練習。 前も後ろもわからないくらい真っ黒に日焼けしていました。

しんどくて辛いが 仲間がいたから頑張れました

・自分の強みを探す

勉学にやる気はなかったが 図画工作は好きでした。平面より立体派。粘土で作る相撲とりを制作して県から特撰をもらう。 両親からは特に褒めてもらえずスパルタだったが 父と夜中まで粘土制作した結果だったから 嬉しかった。

当時ミスタードーナツのCMから流れるカーペンターズの「yesterday once more」 に心を打たれる。

なり切って歌いまくる。

・高校時代

高校も成り行きで決める。 周りはやんちゃで(当時はヤンキーという)でえらいとこに来たなと思う。

奥田民生に憧れて バイトで稼いだお金でギターを買い友達と教室に通う。

才能はなかった。

体育祭の担当した応援幕で優勝を取ったのが印象に残っている。

嬉しいはずが その時はみんなと折が合わず素直に喜んでいなかった。

何んでもやれると勘違いしていたので 骨折を2回したり5針縫ったり

自分を手荒に扱ってきた。

当時カットモデルを引き受けたご縁で高2から美容学校の通信過程を学び始める。器を作る人に憧れていたが 大学は行かしてもらえないだろうと感じていたのと 美容師と決めたなら 早く手に職をつけた方がいいという助言もあり

何かを手がける人とは決めていたが これも成り行きだがやる気に満ち溢れていた。

・大阪へ就職

大阪の下町の美容院で寮生活を送る。

ヘアカットを上手くなりたいと思っていたので オーナーからカットスクールを紹介してもらう。

日本に鋏でカット技術を広めた人 川島文夫先生。時折バックステージにおいでよ!と見させてもらい貴重な体験をさせていただきました。

その後滋賀に戻って美容師として働く。

働きながら東京のカットスクールに通い 働いたお金はスクール運賃、洋服に消える。

体調を崩し10日間入院した時自分の中で健康とは何かのキーワードが芽生える。

・もっと刺激が欲しい。上手くなりたい。だが。

ご縁で三重に再就職。スタッフの多い美容室だったため人間関係もここで学ぶ。名古屋片道一時間半かけて通勤していた時は 美容が嫌になってしまい辞めて滋賀に帰る。

2年ほどコーヒーショップでバイト生活。まだスタバも日本にはないときでエスプレッソを抽出してアレンジするドリンクを提供していた。

今から思えば画期的なことだったなと思う。楽しかった。

この時に出会ったオーナーやスタッフが今もカットにきてくれている。

・暮らしに目覚める26歳。引越し、オープン。

後に今の夫と出会い結婚、ヘアサロンオープン。

この時から暮らしに関心があり料理や器の本 暮らしのエッセイ、住宅の本を読み漁る。  ギャルリ百草の安藤夫妻との出会いは大きく影響を受けました。

5年経った頃子供ができて 借金を抱えたまま育児とテナントを継続する選択をしたが 非常に困難だった。返済の終わる7年目で店を閉める。

5年ほどパートとして近隣の美容室で働かせてもらう。

後に借家の2階で独立する。現在の【美草】誕生。

一軒家の借家だったが 配管の穴を開けてもいいよ。(シャンプー台の)頑張って。という大家さんから背中を押していただいた。

・古道具や人からの影響 そして環境

祖母が鼻をかんだティッシュさえもモノを大切にする人だったこと

周りの家より古い家に住んでいたのと 五右衛門風呂だったことから火が身近にあり 琵琶湖など自然が身近にありました。

  

石臼や味噌を混ぜる大きなしゃもじ、井戸のバケツ、祖父の青焼きの図面。ブリキの米びつなど が幼少より身近にあったためかそのような素材が在ると安心すると思います。 そのくらい素材は精神的なものに影響があると今思います。